海外旅行で食中毒になったことがあるだろうか?異国で食べる食事はその土地の雰囲気と相まってとても美味しく感じられるだろう。ガイドブックに載っている有名レストランやアジア諸国の風物詩ともいえる屋台街、近年は日本人が多い地域に行けば日本料理店だって普通に美味しかったりする。僕はサーフボード片手に旅をしている時に水の違いや生焼けの何かで腹を下すことがあった。いつも軽度だったので「自分は食中毒とは縁がない」と勝手に思い込んでいた。そんなある日、僕は自分の甘さを思い知ることになったのだ。
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先日、タイ・バンコクに家族旅行に行ったときの事だ。「みんなで屋台料理を食べにいこうよ~」という無邪気な嫁に僕は衛生面の不安を理由に反対した。そして嫁には見事に反発された。嫁の気持ちは解るけど海外で強烈な食あたりを経験した事がある僕にとって、義父母・義理の兄夫婦・甥姪・自分の家族の十数人で屋台に食べに行くなんて「1等・食あたり」が高確率で当たるくじ引きにしか思えなかったのだ。結局、現地に駐在している義理の兄貴も同意見で屋台は避けることにした。タイ旅行の別の出来事を記事にしているので興味のある人には読んで欲しい。
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目次
食中毒になんてなるはずないと思っていた
インドネシアのスラバヤに仕事で行ったときのことだ。現地で僕を案内してくれた日本人ブローカーの人に「屋台料理」を食べたいので連れて行って欲しいとお願いしたことがある。その人はすごく申し訳なさそうな顔をしてこう言った。
「はにゃおさんがもし食中毒になったら…現地や横の繋がりは噂が早いので仕事がし辛くなるんです、だから屋台は勘弁してください」
聞くと以前に別の個人ブローカーの人が出張者を屋台に連れて行き、食中毒になって大騒ぎしたそうだ。結局、その個人ブローカーの人は廃業せざるをえなかったらしい。この道30年の人生の先輩に頭を下げられた僕は、あきらめてホテルでご飯を食べることにした。その時は聞いた話を「屋台くらいで慎重過ぎやしないか」としか思わなかったのだけれど・・・。
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若さゆえの過信があった
僕は若い頃、サーフボード片手にあちこちを旅をしていた。もちろんお金に余裕はなかったので、アジアなら屋台で50円でご飯を済ますことが多かった。お店の衛生面なんて気にしたことがなかったし、お腹が下ることは多々あったけどそれはサーフィンで背中についた大きな傷と同じように旅の勲章だと思っていた。いつしか自分のお腹に絶対の自信を持つようになり、人より強靭なお腹だと思うようになった。残念ながらこれは勘違いだった。
最高の波を求めて旅に出た
インドネシアにスンバワ島という小さな島がある。バリ島から「メルパティ航空」という国内線のプロペラ機で約2時間の島だ。ちなみに有名な「ガルーダインドネシア航空」は「神の翼」という意味で「メルパティ航空」は「鳩」という意味だった。なんとも頼りない名前をつけたものだ。
スンバワ島は知る人ぞ知るサーフディスティネーションで僕はオーストラリア人の友達のアッシュとポールと共に最高の波を求めて3週間、スンバワを訪れたのだ。スンバワ島の波は聞いていた以上にパーフェクトで大きかった。僕は何度も波に巻かれて死にそうな思いをしたが、ベストなタイミングでテイクオフした波は丁度良い掘れ具合のバレルとなり僕のサーフィンライフで最高の経験を積むことができた。一日中、サーフィンに明け暮れて夕焼けを見ながらプールでビールを飲むのがオージースタイルで、着の身着ままで生きていくアッシュ、ポールと共にした時間は忘れられない。
アッシュは僕の英語の先生だった。彼の授業について書いた記事はこちらを読んでほしい。
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地獄のカウントダウンが始まった
ある日の夕方、サーフィンを終えて部屋でアッシュと2人で談笑していたところ、突然部屋の扉が開いた。何事かと思ったらポールが帰って来た。シリアスな表情でこう言った。
「You guys ready for vormiting?」(お前ら、吐く準備はできてるか?)
僕は彼が何を言っているかよく解らなかった。英語の意味は解るのだがなんのジョークを言っているのかと。ポールによると僕達が泊まったホテルで集団食中毒が発生中らしかった。そして今苦しんでいる連中は皆、朝食にオムレツを食べたと。僕は一瞬目の前が真っ白になった。僕達が泊まったホテル・アマンガティは一泊3,000円しないくらいの安宿だが、スンバワでは一番高級なホテルだ。朝食はコンチネンタルで卵の焼き方を選んでオーダーする。僕達は半熟オムレツを毎朝食べていたのだ。そしてポールは続ける。
ポール「苦しんでいる連中は8:00に朝食を食べたと言っている、俺達は1ラウンド海に入ってから朝食を食べたから10:30頃だろう。だから俺たちに残された時間は後2時間ちょっとだぞ」
アッシュ「解った、じゃあ今からできる限り準備するぞ」
僕「え…マジ…カウントダウン始まってるの?」
僕達は来たるべき食中毒に対処するべく色々な準備をした。洗面所には石鹸、複数人一度に吐けるようにバケツの準備、汚れた場合の着替えや水分補給のミネラルウォーターなど。そうしている間にも食中毒へのカウントダウンは進んでいるのだった。
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受け入れなければならない「食中毒」という現実
ウォーキングデッドという海外ドラマを見たことがあるだろうか?ゾンビに噛まれると必ず数時間語に発症してゾンビになってしまうというドラマだ。ある人はその運命に耐え切れず泣き叫び、ある人は運命を受け入れて仲間から遠ざかっていく。アッシュとポールは現実を受け入れていたが僕はなんだか信じ切れず受け入れてなかったように思う。そして僕は自分の体の異変に気づいた。今まで経験したことがないくらいにお腹がパンパンに張っているのだ。
ポールも同じように感じたらしく「いよいよ来たぞ、さあ乗り越えるぞ!」となんだか嬉しそうに言う。アッシュがクールに親指を立てて「グッドラック」と答える。それからの3日間、僕達の部屋は唸り声ともどし声が交錯する地獄絵図のような状態になった。
食中毒を防ぐ1
地獄からの生還
3日後の朝に僕はげっそりとしながら散歩に出た。フラフラだがなんとか歩けるくらいには回復したのだ。ホテル・アマンガティは海の目の前でレイキーピークという有名なサーフポイントの波がチェックできる。食中毒になる前には人生最高のウネリが入っていたので少しは残っていて欲しいと希望を抱きながら波をチェックする。残念ながら波は無くなっていた。僕は人生最高の波を食中毒にかかって逃してしまった。サーフトリップは波の当りハズレとの戦いだ。せっかく良い波を当てたのに…。僕が海外での初めて経験した食中毒(人生でも初めてだ)は悪いことを二重取りする経験となってしまった。
教訓を生かして
その後、僕はホテルの支配人にクレームを入れた。「全額返金してほしい」という僕にホテルが提示したのは2泊分の料金と無料のおかゆだった。アッシュとポールは「ここはインドネシアだぜ」と返金を求める僕がお角違いだと言いたげだった。それから一週間くらいは滞在したと思うが再び波のサイズが上がることはなかった。僕達は釣りをしたり、探検に出かけたり、小さな波で遊んだりして時間を過ごすしかなかった。
僕は今でもお腹の調子が悪いと何時に食事をしたのかを確認する。あの時のカウントダウンは約7時間くらいだったと思うので、それを過ぎても酷くならなければ大丈夫だろうという教訓にしている。そしてもうひとつ、東南アジアでは二度とオムレツを食べないと誓ったのだった。
読者のみなさんも海外旅行の食べ物には十分に注意してほしい、特に卵料理には…。
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