海外とビジネスをするのに一番必要なのは英語の上達だ。少なくとも若い頃の僕はそう信じていた。僕が輸入関係の仕事についてみると、当然のように仕事のメールや電話は英語で行われた。僕はまだまだビジネスでは通じない自分の英会話を上達する必要性を感じたのを覚えている。
海外旅行に行き慣れていたり、後に留学して英語も勉強したけれど、海外との取引は英語を上達すれば良いという単純なものではなかった。今回のお話は僕が「昭和の男の背中」を見て感じた英語より大切なことについて語りたい。
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「グッドモーニング!ベ~トナ~ム」そんな声が聞こえて来そうな朝だった。僕がカーテンを開けると眼下には茶色く濁ったサイゴン川が流れていた。朝のサイゴン川は船の往来が激しい。何かを運搬する大きめの船、その船が起こす波に流されまいと波間を抜ける小さなボートがひっきりなしに通っていた。
川沿いの道路には既に何百台というバイクが走っていて、今日も30度を超えの天気予報がテレビで流れていた。僕がいる場所はベトナム・ホーチミンのホテルだった。現地の工場となかなか解決しないトラブルが発生し、電話ではラチが開かないので直接交渉しに来たのだ。
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ちなみに冒頭の青い文字は名作、ロビン・ウィリアムズ主演の「グッドモーニング、ベトナム」の始まりだ。僕が大好きな映画のひとつでもある。
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ワンマン社長と朝食をとる
シャワーを浴びて着替え、朝食に行く準備していた時に電話がなった。電話にでると相手は交渉を手伝ってくれている商社のKさんだった。Kさんが働く会社は商社と言っても従業員が10人くらいの小さな会社で、業界でも有名なワンマン社長がいることで有名だった。
Kさんが言うには僕のベトナム入りを知って、そのワンマン社長が帰国日を伸ばして待っていてくれたそうだ。僕はまだワンマン社長に会ったことがなかった。
Kさんは僕に申し訳無さそうに「すみませんが、今からウチの社長が泊まっているホテルで一緒に朝食を取ってくれませんか?」と言った。僕が理由を尋ねるとこうだった。Kさんは昨日の夜遅くにワンマン社長にこんな事を言われたそうだ。
「君はきっと、朝食を食べ終えたはにゃおさんをワシの前に連れてくるんだろうなあ…」
さすがワンマン社長、ひとひねり入った指示の出し方だ。そう言われたKさんは翌朝、血相を変えて僕をホテルまで呼びに来たという訳だ。ワンマン社長の泊まっているホテルは値段が高くて僕にはとても泊まれない。ちなみにKさんは僕よりもっと安いホテルで窓がない部屋に泊まっていたそうだ、可哀相に。
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「昭和を生きた男の話」は面白かった
ワンマン社長は昭和の人だった。年齢は70代半ばと聞いていたが、見た目は50代後半くらいに見えた。身に着けている物は決して高いブランド品ではないが、昔気質の粋なファッションセンスを感じさせる。
話好きで一緒に食べた朝食から工場までの車の中で、ずっと僕に話しかけてくれた。その内容は多彩で政治や経済の話から業界の今昔物語まで、僕はおじいちゃんが開いた玉手箱の中を見るような思いで聞いていた。
高度成長期からバブルへ、バブルがはじけてどん底、そこから這い上がった話など、どの話も僕が経験したくても出来ないような昭和の男の物語だったことを覚えている。Kさんに言わせると毎日聞かされると溜まったもんじゃないという事だったが、僕には毎日聞くことはできないのでワクワクしながら話を聞くことができた。
僕の交渉力の限界
製造を委託してる工場についた僕は早速、トラブルを解決する為に工場長と交渉のテーブルについた。もうすぐ販売開始を決めている商品の納期が全く決まっていなかった。しかも工場長は利益が少ないので生産を始めないと言う。彼は一度は握ったビジネスを覆そうとルール違反の駆け引きを仕掛けて来ていた。
僕は拙い英語で交渉を始めるが相手は全く譲ろうとしなかった。なぜならその工場は日本の名だたる企業から仕事の依頼が来ているため、僕が働いている小さな会社の取引では金額的に満足できないらしい。ここまで取引にこぎつけたKさんが説得しても工場長は「状況は変わっている」の一点張りだった。
つまりは発注量を増やすか単価を上げろという事だった。
僕が海外旅行などで英語を学んだり、悪戦苦闘した話は下記のリンクを読んでほしい。どの記事も本当の話だから。
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突然起きた奇跡
2時間以上交渉を続けたが進展は見られなかった。もはやこれまでか…と思った時に1人の男が部屋に入って来た。男の名はグエンと言った。「グエン」はベトナムでは一般的な名前で日本の「太郎」みたいなものだと思う。グエンはこの工場の経営者で、僕も直接会うのは初めてだった。さっきまで横柄な態度を取っていた工場長の背筋がピンと伸びて会議室に緊張が走った。グエンは僕らに挨拶をした後で工場長に向かってこう言った。
「この人達の言う通りにやりなさい」
工場長は背筋を伸ばしたまま軍人のように返事をした。僕は何が起きたか解らなかった。でも時間が経つにつれてなんとなく解ってきた。それは僕の隣に座っていたワンマン社長のお陰だったのだ。
この工場を経営するグエンはワンマン社長にとても礼儀正しく「お久しぶりです、お元気そうで何よりです。」と話しかけた。その眼差しは自分の父親を見るみたいに尊敬と愛情が込められていた。それはワンマン社長も同じで、元気そうなグエンの手を取って、笑顔でうんうんと頷いていた。僕の目にはワンマン社長の背中がとても大きく見えた。
僕は前に「英語を話すと海外で奇跡が起こる」という記事を書いた。でも今回は僕の英語での交渉は機能してなかった。言語ではない別の物が奇跡を起こしたのだ。
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言葉よりも大切なもの
その日の夜、ワンマン社長と一緒に夕食を食べている時に僕は質問をした。グエンとワンマン社長の関係に興味があったからだ。工場長があれほど嫌がった案件を一蹴してしまうほどの2人の関係は一体何があったのか知りたかった。
ワンマン社長は僕に丁寧に話してくれた。彼とグエンのお父さんは昔からの知り合いだった。まだグエンが小さい頃から家族ぐるみの付き合いをしていたらしい。グエンのお父さんが仕事に失敗して夜逃げした時も、ワンマン社長が助けたそうだ。お金こそ貸さなかったけれど仕事は発注し続けたと話してくれた。今は父親が亡くなり、グエンが立派に事業を継いでいる。そして今回、僕とKさんがグエンの工場で揉めているという話を聞いて何か役に立てればいいと思ったそうだった。僕が丁重にお礼を言うと、ワンマン社長は僕にこう教えてくれた。
「英会話も大事だけれど、海外との取引は貸し借りがとても重要だ。時には貸しを作ることも覚えるようにしなさい。」
ワンマン社長に言われた言葉はその後の僕の仕事の仕方に大きな影響を与えた。僕は今でも海外との取引でトラブルが起きると彼の言葉を思い出し、噛み締めながら解決策を見出すようにしている。
背中で見せてくれた事に感謝
その後、僕は社内でも担当が変わりワンマン社長に会うことはなくなった。Kさんは時々僕の職場に現れるので、ワンマン社長が体調を崩していたのはなんとなく知っていた。それでも年賀状には「またベトナムに行きましょう!」と筆文字で書かれていたのを覚えている。
そんなワンマン社長が少し前に亡くなった。「はにゃおさん達のやりたいようにやりなさい、若い人の時代なんだから」と笑顔で僕の背中を押してくれたワンマン社長に、僕はもう一度お礼を言いたかったが、それはもう叶わない望みになってしまった。
僕はあの日のホーチミンで「昭和の男の背中で学んだ大切なこと」を決して忘れないだろう。
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